心が晴れる場所がここにある。木漏れ日と風と仲間に包まれて!


光城山 (2025.12.1)


光城山

安曇野市にある光城山 (ひかるじょうやま) に登りました。参加者4人。
安曇野の西に位置する北アルプス (西山) に対して、東に位置する標高900m程の里山です。
トレッキングコースはいくつかあるのですが、今回は「さくらコース」を選びました。登山口から光城山まで約1時間のコースです。

松本市発行「安曇野ひがし山 光城山・長峰山ガイドマップ」より
光城山山頂付近から北アルプスを望む

山頂は、北アルプスが一望できる大パノラマが広がっています。

光城と田沢城の位置関係
田沢城跡付近のTVアンテナ中継所

他のメンバーが同じ「さくらコース」を下ったのに対して、筆者は「田沢城跡コース」を選びました。田沢城跡を確かめたかったからです。標識らしいものは見当たらず、TVアンテナ中継所を見つけて、この辺りだろうなと想像しました。
砂れきの急斜面に落ち葉が覆いかぶさり、何度も滑りそうになりました。このコースは注意が必要です。


光城山 (ひかるじょうやま)

光城山山頂にある三角点

標高は約911.7m、標高差(麓からの高低差)は約360mと比較的少なく、登山・ハイキング初心者やファミリーでも気軽に楽しめる山です。
春の桜、秋の紅葉・雲海、冬の雪景色など、季節ごとに表情が変わる里山として人気です。

桜の名所

桜が植樹された登山道

大正から昭和の近年にかけて、土砂崩れ防止や景観保全の目的で植樹が行われ、登山道沿いにソメイヨシノが約1,500〜2,000本植えられました。
春、麓から山頂に向かって“桜の道”が続く様子が「昇り龍」のようだとも言われています。
登山道の桜植栽は大正時代あたりから行われており、当初は大正天皇即位記念の植樹だったという記録もあります。

「光城山」名称の由来

鎌倉時代、当地を治めていた海野 (うんの) 氏の支族「光 (ひかる)氏」が山城を構えていたため、「光城 (ひかるじょう)」の名が残されました。

もう少し詳しく

光城山山頂にある説明版

光城は、かつてこの山頂 (現在の光城山) に築かれた「山城 (やまじろ)」でした。
※山城とは……山や丘陵などの高所に築かれた城のことで、戦国時代以前の日本で広く作られ、自然の地形を最大限に利用して防衛力を高めた “天然の要塞” と言えます。
築城したのは 海野氏の一族で、特に海野六郎幸元 (後に「光」の文字を取って「光六郎幸元」と名乗った) によるものと考えられています。

光城周辺の山城マップ

この一族は、塔ノ原、田沢、刈谷原など周辺の丘陵地にも城 (館や城砦) を構え、烽火 (のろし) などによる連絡網を築いていたと言われています。光城もそのひとつで、地域の防御・監視、連絡拠点の役割を果たしていた可能性があります。

古嶺神社外観
古嶺神社内部

大きな天守閣や石垣を持つ城ではなく、いわゆる「山城」でした。
主郭 (本丸) と二の郭を中心に、土塁、空堀 (堀切) 、竪堀、曲輪 (くるわ) などの土の構造で防御されていました。
山頂の主郭には現在、火の守り神を祀る「古峯神社」が建っています。

古嶺神社の説明版

城の築かれたのは、室町時代中期〜戦国時代初期 (16世紀ころ) にかけてとするのが通説です。
当時、信濃 (現在の長野県一帯) は戦国の混乱が激しく、勢力争いの舞台になっていました。城としての光城は、地域防衛・連絡拠点のひとつとして機能していたようです。
しかし、天文22年 (1553年)、 武田信玄の勢力が進攻する際、周辺の城砦 (例えば刈谷原城など) が攻められ、光城も落城しました。
その後、この地域を治めた松本城主の小笠原貞慶 (おがさわらさだよし) によって修復された、と考えられています。

光城山の魅力

こうして、かつての山城の史跡が、地域の自然と歴史、そして季節の風景を楽しむ里山として次代に受け継がれています。
築城〜落城〜廃城〜現代の「城址 → 花見スポット」という長い時間の流れを通じて、この土地の歴史の移り変わりを一望できます。
戦国の世と現代の平和、両方に思いを馳せることができる場所なのです。


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